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エディ・メルクス——1964年東京五輪の12位から、ツール・ド・フランス5勝へ

ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアを5回ずつ勝ち、「人食い」と呼ばれたベルギーの選手がいます。エディ・メルクスは1964年、19歳のときに東京五輪のロードレースを走っていました。大けがの痛みを抱えたまま、出たレースを全部勝ちにいった人の話を、日本との縁から始めます。

2026-10-10 公開

19歳の世界王者は、東京五輪の坂で何度も前へ出た

エディ・メルクスは1945年6月、ベルギーの小さな村で生まれました。1歳のとき、両親はブリュッセル郊外へ移り、食料品店を開きます。家族に自転車選手はいませんでしたが、少年はツール・ド・フランスをラジオで聞いて育ちました。80歳の誕生日の取材で、こう話しています。「小さいころから、自転車選手になるのが夢だった。ローマ教皇になりたい人もいれば、ぼくは自転車選手になりたかった。学校では、そんなのは職業じゃないと言われたけれど、そうじゃないと証明してみせた」

伝記作家によれば、母はやさしすぎる息子には自転車選手の厳しい世界は向かないと考え、強く反対していました。それでも1961年10月1日、16歳で初めて勝ちます。「勝つことは、自分の中から出てきた」と本人は言います。一度だけレースを人に譲ったときは、両親にひどく嫌がられました。「二度とするんじゃないよ」

1964年、19歳でアマチュアの世界選手権に勝ちました。その世界王者として数週間後に走ったのが、10月22日の東京五輪の個人ロードレースです。会場は八王子で、1周24.354kmを8周します。オランダの選手のひとりは、レースのあとこう話しています。「ぼくにとっては、ベルギーのメルクスが主役だった。8回上った坂で、いちばんよく脚が回っていて、いつも何mか差をつけたけど、コースがこんなにやさしかったのは、彼には不運だった」。坂のあとは平らで速い道が続き、メルクスが坂でつけた差は、そのたびに消えていきました。

最終周、メルクスは前を逃げる2人を追って飛び出します。その後ろについた数人のなかに、フランスのクリスティアン・レイモンがいました。下りで集団に追いつかれたあとも、残り2kmでメルクスはまた先頭にいます。けれども、ゴール前の長い直線に入る最後のカーブで、霧雨に濡れた路面にスリップします。後ろの選手たちが追いつき、勝負は集団のスプリントになりました。勝ったのはイタリアの選手で、メルクスは12位です。「転んでいなければ勝っていた」という説もありますが、当時のオランダの新聞は、滑ったものの転ばなかったと書いています。

出典(8件)

VRT NWS(2025年6月21日):「Le coureur cycliste le plus titré de l'histoire est né le 17 juin 1945 à Meensel-Kiezegem」「Eddy n'a qu'un an lorsque ses parents déménagent à Woluwe-Saint-Pierre (Bruxelles) pour y ouvrir une épicerie.」。伝記作家ジョニー・ヴァンセヴナントの談として「Sa mère était trop protectrice et ne voulait absolument pas qu'Eddy devienne coureur cycliste. Elle trouvait son fils bien trop doux pour pouvoir s'imposer dans ce milieu très dur」 ↗Sporza(2025年6月17日、80歳の誕生日のインタビュー):「Niemand in mijn familie koerste, maar ik luisterde wel naar de radio tijdens de Tour.」「Al van kleins af droomde ik ervan om wielrenner te worden. De ene wil paus worden, ik wilde wielrenner zijn. Op school zeiden ze dat het geen beroep was, maar ik heb toch het tegendeel bewezen.」「Het winnen kwam uit mezelf」「Eén keer heb ik een koers aan iemand anders gelaten en daar waren mijn ouders niet goed van. "Zie maar dat je het nooit meer doet".」 ↗RTBF(2023年10月1日):「le Cannibale est revenu là où il a gagné sa toute première course, à l'âge de 16 ans. C'était le 1er octobre 1961.」 ↗VRT NWS(2015年10月28日):「Zijn zege in het amateurwereldkampioenschap in ’64 in Sallanches」 ↗Olympedia(1964年東京五輪 個人ロードレース):「Date 22 October 1964」「Hachioji Road Race Course」「Eight laps of 24.354 kilometres.」「he finished 12th」。12位は、公式報告書と公式記録が一致している上位35位の内側にある。同じページは雨を「heavy rain」と書くが、当時のオランダの新聞2紙はどちらも霧雨(miezerig)と書いているので、そちらを採った ↗De Volkskrant(1964年10月23日、東京から特派員)。オランダのヘルベン・カルステンスの談:「Voor mij was de Belg Merckx de grote man. Hij draaide het best op de heuvel, die wij acht keer moesten nemen, hij won steeds een paar meter, maar zat 'er ook mee, dat het parcours zo makkelijk was.」。地の文:「wist op den duur met feilloze zekerheid, dat op de volgende 23 kilometer zijn winst zou opbranden」 ↗オランダの地方紙(Joh. Geradtsen 発行、1964年10月22日、特派員):「Wereldkampioen Eddie Merckx, belust op een tweede triomf binnen zes weken, demarreerde」「Hij werd gevolgd door de attente Gerben Karstens, die geen herhaling van Sallanches wenste, de Fransman , Raymond」「Bij het keizerlijk mausoleum op twee kilometer van de streep lag Merckx weer voorop」「In de laatste bocht voordat de weg over een lengte van 700 meter verder kaarsrecht naar de aankomstlijn loopt, slipten Merckx en Stevens op het door een miezerig regentje glad wordende wegdek maar kwamen niet ten val.」 ↗日本語版ウィキペディア「エディ・メルクス」:「なおメルクスがレース後半で転倒していなければ優勝したはず、との風説もあるが、メルクス転倒の事実自体が未確認である」 ↗

総合首位のまま、ホテルのベッドで泣いた

メルクスは翌1965年にプロになりました。1969年のジロ・デ・イタリアで、彼はステージを4つ勝ち、総合首位のピンクのジャージ、マリア・ローザを着ていました。5月30日の時点で、2位との差は1分41秒。新聞はそろって、大きな事故や病気でもないかぎり、もう彼がジロを負けることはないと書きました。

6月1日、パルマからサヴォーナまでのステージのあと、メルクスはいつものように最初にドーピング検査を受けます。翌2日の朝、出発を待ってレースパンツ姿のままベッドに横になっていた部屋に、チームのマネージャーが知らせに来ました。前日の検体から、興奮剤が見つかったというのです。メルクスはジロから外されました。1か月の出場停止で、7月のツール・ド・フランスにも出られなくなります。

彼は涙をこらえきれませんでした。「違う、これは妨害だ」「もう終わりだ。もう走らない。二度と自転車には乗らない」。泣きじゃくる姿の映像は、世界中に流れます。総合2位にいたイタリアの選手は、ピンクのジャージを着ることを拒みました。ファンからは1万通を超える手紙が届き、妻のクローディーヌは、その1通1通に礼状と夫の写真を添えて返事を書いています。

国際プロ自転車競技連盟は6月14日、疑わしきは罰せずとして、出場停止を解きました。メルクスはこの中途半端な結論に、ずっと納得していません。何も使っていないと言い続けた彼は、ツール・ド・フランスに向けて、往復250kmの練習に出かけます。「仕返しがしたかった」

出典(5件)

Olympedia(1964年東京五輪 個人ロードレース):「Merckx turned professional in April 1965」 ↗RTBF(2019年6月1日):「Sauf incident grave, chute ou défaillance imprévisible provoquée par une maladie dans les Dolomites, Eddy ne peut plus perdre ce Giro.」「Nous somme le 30 mai et, au soir de cette quatrième victoire d'étape」「Merckx compte 1'41" d'avance sur son plus proche et plus sérieux adversaire, Gimondi et la presse conclut à l'unanimité」「Le dimanche 1er juin, au terme de l'étape qui conduit les coureurs de Parme à Savone, Merckx est comme d'habitude le premier à se présenter au contrôle anti-dopage」「Le matin du lundi 2 juin, Giacotto frappe à la chambre」「en cuissards et en chemisettes, sont allongés sur leurs lits dans l'attente du départ」「Une forte concentration de fencamfamine , un produit stimulant」「Effondré, incapable de retenir ses larmes, Eddy sursaute : " Non, c'est du sabotage ! " Et il ajoute : " C'est terminé. Je ne roule plus. Plus jamais je ne roulerai ! "」「Merckx recevra plus de 10 000 lettres de supporters」「Son épouse, Claudine, répondra à chacune de ces missives par une carte de remerciement accompagnée d'une photo de son mari.」「Gimondi refuse d'endosser le maillot rose.」 ↗VRT NWS(2019年7月4日):「Merckx begint te huilen en ontkent dat hij iets genomen heeft. Beelden van de snikkende Merckx gaan de wereld rond.」「We deden tochten van 250 kilometer naar Marche-en-Famenne en terug. Ik wou weerwraak nemen.」 ↗La Libre(2019年7月5日):「sa suspension d'un mois l'empêchera d'en prendre le départ」「le 14 juin, la Fédération internationale de cyclisme professionnel lève cette suspension au bénéfice du doute. Merckx ne se contentera jamais de ce verdict mi-figue, mi-raisin」 ↗Open(2025年5月25日、Corriere della Sera のインタビューから):「Non avevo alcun motivo di doparmi.」 ↗

集団を待つつもりで下った峠から、140kmひとりで走った

1969年7月、メルクスは初めてのツール・ド・フランスを、総合首位の黄色いジャージ、マイヨ・ジョーヌを着て走っていました。15日の第17ステージは、ピレネーの峠をいくつも越える214.5kmの山岳ステージです。

同じチームの選手が、翌年ほかのチームへ移ると早々に明かしていて、メルクスはそれが面白くありませんでした。トゥルマレ峠の頂上の手前で、メルクスは加速します。その選手より先に頂上を越えて、思い知らせたかったのです。本人も「がっかりして、怒る一歩手前だった」と認めています。そのまま下りも先頭で駆け下りました。本人の話では、下りきったところで後ろを待つつもりでした。ところが、後ろは追ってきません。ゴールまで、まだ140km以上ありました。

「一定のペースで走り続けたのに、差は開く一方だった。……少し驚いたよ」。最後のほうは「さすがに距離が長く感じた」と笑っています。ゴールでは、2位の集団に7分56秒の差をつけていました。

黄色いジャージを着ている選手が、こんな危険を冒す必要はありません。何年もあとに本人も「無謀だった」と笑っています。このツールでメルクスは、総合優勝のほかに、ゴールの着順などで点を集めるポイント賞、山の頂上で点を集める山岳賞、大会を通じていちばん攻めた選手に贈られる敢闘賞も手にし、総合2位に17分54秒の差をつけました。80歳の取材では、こう振り返っています。「自分が普通じゃないことをしていたと気づいたのは、あとになってからだ」

出典(3件)

Sud Ouest(2021年7月15日、本人へのインタビュー):「17e étape du Tour entre Luchon et Mourenx (214,5 km)」「À 200 m du sommet, Merckx accélère pour devancer son coéquipier Vandenbossche pour lui faire payer son transfert annoncé prématurément chez Molteni la saison suivante. « J'étais déçu, presque fâché », reconnaît le Cannibale.」「J'ai fait la descente en tête, je pensais me relever au pied du Tourmalet. Je comptais plus d'une minute d'avance, j'ai continué à rouler au train et malgré tout, l'écart ne faisait qu'augmenter.」「J'étais un peu surpris.」「je commençais à trouver la distance longue sur la fin (rires).」「Mourenx est encore à plus de 140 km.」「Il faut être inconscient, sourit Merckx des années plus tard.」。独走の距離は、同じ記事の地の文とRTBFが140km、本人は同じ取材で120kmと話している ↗RTBF(2017年7月15日):「malgré les 140 km qui le séparent de l'arrivée à Mourenx」「7min56 plus tard」「Eddy Merckx remporte le maillot jaune, le maillot vert, le classement de la montagne, la combativité」「il surclasse son dauphin, Roger Pingeon, de 17min54」 ↗Sporza(2025年6月17日、80歳の誕生日のインタビュー):「Achteraf heb ik pas beseft dat ik iets abnormaals deed」 ↗

9月のブロワで、前を引くオートバイの運転手が亡くなった

ツールを勝って2か月もたたない1969年9月9日、メルクスはフランス中部ブロワの競技場で、見せ物のトラックレースに出ていました。小さなオートバイが前を走り、選手はその真後ろについて、風を避けながら走ります。メルクスの前でハンドルを握っていたのは、フェルナン・ワンブストという56歳の元選手でした。若いころには、何日もかけて走るトラックの大会で勝ったこともある人です。

レースの途中、2人が加速し始めたときのことです。メルクスの伝記を書いたイギリスの記者によれば、まだ全力ではなかったものの、時速64km(40マイル)近く出ていました。本人の記憶では、すぐ近くで別の選手を引いていたオートバイの、足を載せるペダルが突然折れました。メルクスはその選手をよけきれずに壁にぶつかり、ワンブストは倒れて路面を滑ってきたそのオートバイに突っ込みます。メルクスが意識を取り戻したのは、病院で頭を縫われているときでした。かぶっていたのは、スポンジと革でできた帽子だけです。「医者にフェルナンのことを聞いた。最初は死んだとは言わず、とても重い状態だと言った。亡くなったと知ったのは、あとになってからだ」

背骨を打ち、骨盤はずれたままになりました。「ブロワは、キャリアでいちばんひどい経験だった。ここで死んでいたかもしれない」。本人によれば、あの日から自転車は苦しみになりました。「それからは、自転車に心地よく座れたことが一度もない」。1970年からは後ろのポケットにスパナを入れて走り、サドルの位置を変えては、上りでの背中の痛みをやわらげようとしました。2025年にも、こう話しています。「二度と同じクライマーには戻れなかった。上りがずっときつくなった。力はまだあったけれど、いつも股関節が痛かった」

長く付き添ったソワニエ(選手の世話係)のギヨーム・ミシールスは、こう言います。「ブロワで落ちてからは、実のところ半分のメルクスだった。そのあとに勝ったものを考えたら……」

出典(8件)

Sporza(2025年6月17日、VRT MAX のドキュメンタリーから):「Het is 9 september 1969, amper enkele weken na de eerste Tourzege van Merckx」「Tijdens een demonstratiewedstrijd achter derny's」「"Ik vroeg de dokters naar nieuws over Fernand", aldus Merckx toen. "Ze zeiden eerst niet dat hij dood was, maar wel dat de toestand zeer ernstig was. Pas later heb ik zijn overlijden vernomen."」「Merckx neemt vanaf 1970 zelfs een moersleutel mee in zijn achterzak zodat hij de positie van zijn zadel kan veranderen, wat de pijn in de rug - vooral bij het klimmen - vermindert.」「"Na die val in Blois was het eigenlijk nog maar een halve Merckx. Als je ziet wat hij nadien nog gewonnen heeft..."」 ↗Het Nieuwsblad(2005年7月6日、本人談):「Blois was de slechtste ervaring van mijn carrière. Hier kon ik dood zijn geweest」「Plots brak een pedaal af. Ik koos voor de bovenkant van de baan, kon Daler niet meer ontwijken en botste tegen een muurtje. Wambst dook naar beneden en knalde pal op de schuivende motor.」「Ik kwam in het ziekenhuis van Blois bij bewustzijn toen ze mijn hoofd aan het hechten waren. Een gekneusde rugwervel en een verdraaid bekken maakten de diagnose volledig.」。この記事は運転手の名を「Bernard」と書くが、ほかの出典はすべてフェルナンなので、そちらを採った。事故の原因は出典によって説明が違うので、本人の記憶として書いた ↗William Fotheringham『Merckx: Half Man, Half Bike』(2012年。Internet Archive の書籍内検索で取得):「In the opening race, Merckx and Wambst won the first intermediate sprint, then the duo began to accelerate a couple of laps before the second. It was not yet a flat-out effort, but they were travelling at almost forty miles per hour.」「They came from behind, passing everyone, and as they came past the first Derny」「we never knew whether the pedal came unscrewed, or if it broke, but that Derny lost control, went up the banking」(直後に続く、付き人ギヨーム・ミシールスの証言)。著者の地の文で、本人の談ではない。衝突の瞬間ではなく、その直前に加速していた局面の速度。当時の新聞に速度の数字は見つからなかった ↗Museo del Ciclismo(フェルナン・ワンブスト):「Nato a COLOMBES il 26 dicembre 1912」「Morto a BLOIS il 9 settembre 1969」 ↗Olympedia(兄ジョルジュ・ワンブストの選手ページ):「another brother, Fernand Wambst, won six-days races in Indianapolis in 1938 and Buenos Aires in 1942」 ↗The Guardian(2013年6月29日、本人談):「I had nothing on my head – just sponge and leather. I twisted my hips and injured my back and I was never the same.」 ↗Cycle Sport のインタビュー(2004年、Cycling Weekly に再掲。英語):「The crash in Blois was terrible for me. From that day cycling became suffering」「After that day I could never sit comfortably on my bike again」 ↗Sporza(2025年6月17日、80歳の誕生日のインタビュー):「Ik ben nooit meer dezelfde klimmer geweest", zegt hij. "Het ging veel moeilijker om bergop te rijden. De kracht had ik nog, maar ik had altijd last van mijn heup.」 ↗

「人食い」のあだ名は、東京で一緒に走った選手から生まれた

メルクスには「人食い」というあだ名があります。フランス語ではル・カニバル、日本語の記事ではカニバルとも呼ばれてきました。勝てるレースは、全部自分で勝ちにいったからです。

本人の話では、名付け親は、プジョーというチームで同僚だったクリスティアン・レイモンの幼い娘です。スタートラインで、父親が娘に「こいつは何ひとつ勝たせてくれない。全部自分のものにしたがるんだ」とこぼすと、娘は「じゃあ、人食いね」と答えたのだそうです。1973年のフランスのテレビ番組の記録では、レイモン本人が付けた名前だとされています。どちらの話でも、あだ名はレイモンの家から出てきました。そのレイモンは1964年、東京五輪のロードレースに出ていた選手でした。最終周にメルクスが飛び出したとき、その後ろについていったフランス人です。

2008年、東京の自転車の展示会に来たメルクスは、日本の取材にこう答えています。「実際に選手からそのニックネームで呼ばれることはなかったですよ。ですからあまり気にしていません」。同じ取材で、ランス・アームストロングとの違いを聞かれると、こう話しました。「相違点は、アームストロングはツールにだけ集中してやっていたこと。ぼくは全部の試合に集中してやっていた」

出典(6件)

J SPORTS(2021年7月10日):「偉大なる「カニバル」の誇るツール史上最多区間勝利数」 ↗J SPORTS(2017年6月1日):「「カンニバル=人食い鬼」と恐れられた男」 ↗The Guardian(2013年6月29日、本人談):「They called me the Cannibal. It was a young girl, the daughter of my old Peugeot teammate Christian Raymond, who gave me the name. We were on the start line and Christian said to her: "This guy won't let us win anything – he wants everything for himself." She said: "So he's a cannibal."」。1973年のフランスのテレビ番組の目録は、あだ名を作ったのはレイモン本人と書いていて、娘には触れていない(INA) ↗Olympedia(クリスティアン・レイモン):「These results earned Raymond a place on the Olympic team at the Tokyo Games, where he finished 95th in the road race」「The following year he turned professional, representing the Peugeot–BP–Michelin team.」「Born 24 December 1943」。同じページは名付けた娘を12歳と書くが、名付けの時期(本人は2008年の CYCLINGTIME.com の取材で、新人のころに付いたと話している)と父の生年が合わないので、年齢は書かなかった ↗INA(1973年11月4日放送の番組の目録):「interviews de Christian RAYMOND sur le surnom "cannibale" qu'il a créé」 ↗CYCLINGTIME.com(2008年11月19日、サイクルモード東京でのインタビュー。日本語で掲載、2015年10月のアーカイブ):「実際に選手からそのニックネームで呼ばれることはなかったですよ。ですからあまり気にしていません。」「相違点は、アームストロングはツールにだけ集中してやっていたこと。ぼくは全部の試合に集中してやっていた。」 ↗

8分42秒負けた相手が去った日、黄色いジャージを着なかった

1971年のツールで、メルクスはキャリアでいちばん大きな負けを味わいます。7月8日、山頂ゴールのオルシエール・メルレットへ向かうステージで、スペインのルイス・オカニャが独走しました。先頭は風をまともに受けていちばん疲れるので、ふつうは交代で引きます。メルクスは10人ほどの集団の先頭を100kmにわたって引き続けましたが、後ろの誰も代わってくれません。ゴールでは8分42秒の差がつき、総合首位の黄色いジャージはオカニャのものになりました。息を切らしたまま、フランスのテレビにこう言っています。「今日は、言うことはあまりないと思う。闘牛士のエル・コルドベスが牛をねじ伏せるように、オカニャはぼくら全員をねじ伏せた」

それでもメルクスはあきらめませんでした。休息日明けの10日、スタート直後の下りからチームの仲間と飛び出し、250kmを攻め続けてオカニャから2分を取り返します。予定より2時間近く早く着いたので、ゴールのマルセイユでは役員が知らせを受ける前に選手が来てしまい、怒った市長は、もうツールを街に迎えないと言い出しました。

7月12日、ピレネーの最初のステージで嵐になります。メルクスはカーブで落車し、起き上がって走り出しました。同じ場所でオカニャも転び、後ろから来た選手にぶつかられて、レースを去ります。黄色いジャージは、メルクスに回ってきました。けれども彼は、ゴールでそれを着ることを拒みます。その夜、ベルギーの記者にこう話しました。「続けるかどうか分からない。こんな形で勝つくらいなら、2位で終わったほうがよかった」

フランス人のチーム監督に説得されて走り続けたメルクスは、このツールを勝ちます。のちにメルクスとオカニャはとても仲のいい友人になったと、オカニャの元チームメイトは話しています。

出典(3件)

RTBF(2023年7月10日):「Quant à Eddy Merckx, il lutte seul, ses rivaux dans la roue ne prennent aucun relais.」「" Je crois qu'il n'y a pas grand-chose à dire aujourd'hui. Je crois qu'Ocaña nous a tous matés comme le torero el cordobes mate ses taureaux " réagit encore essoufflé à l'arrivée, le cannibale, au micro de la télévision française.」「lutte durant 100 kilomètres avec acharnement, traînant derrière lui une dizaine de coureurs」「Dès le départ, Eddy et quelques-uns de ses équipiers foncent dans la descente.」「Durant 250 kilomètres, la bataille est lancée」「les échappés arrivent avec près de deux heures d'avance」「Les officiels n'ont pas eu le temps d'être prévenus : furieux, le maire de Marseille Gaston Deferre refusera d’accueillir encore le Tour dans sa ville.」「Ce 8 juillet 1971, Merckx connaît sa plus grande défaite.」「Merckx reprend deux minutes à Ocaña」「Dans la première étape pyrénéenne, un orage éclate. Merckx chute dans un tournant, se relève et repart. Ocaña tombe au même endroit」「À l'arrivée, Merckx refuse d'endosser le maillot jaune. Ce soir-là, il confie à notre regretté confrère Théo Mathy : " Je ne sais pas si je vais continuer. J'aurais préféré terminer second que de gagner dans ces conditions ". Mais un directeur sportif français va le remettre en selle」。同じ記事は差を8分41秒と書く ↗tuttobiciweb(2026年7月23日、英語版):「He crossed the finish line third, with a deficit of 8'42"」「A small group up front with Merckx leading and behind him the Spanish rider in the yellow jersey」(7月10日の描写)「found himself back in the yellow jersey (though he did not wear it that day, out of respect for his rival)」 ↗L'Humanité(2003年7月22日、オカニャのチームメイトだったクリスティアン・パルカの談、アーカイブ):「Au final, Eddy Merckx avait accusé un retard de 8'42.」「Par la suite, ils sont devenus très amis.」 ↗

モントリオールの丘で、3度目のアルカンシエル

1974年、メルクスはジロとツールを勝ち、8月25日、カナダのモントリオールで世界選手権のロードレースを走ります。プロのロードレースがヨーロッパの外で開かれたのは、このときが初めてでした。街の真ん中にあるモン・ロワイヤルの丘を回る12.5kmの周回を、21周する262.5kmです。

本人は、こう振り返っています。「はじめはスプリンター向きのコースだと言われていたけれど、モン・ロワイヤルは、スプリンター向きのコースとはまるで違った。とても厳しいレースで、ベルナール・テブネが長く逃げていた」。70人が走り出して、ゴールまでたどり着いたのは18人だけでした。最後はメルクスが仕掛け、ついてこられたのはフランスのレイモン・プリドールだけです。2人のスプリントを、メルクスが制しました。

1967年、1971年に続いて3度目の世界王者になり、次の1年間着る、胸に5色の帯が入った白いジャージ、アルカンシエルを3度手にしました。ジロ、ツール、世界選手権を同じ年に勝ったのは、彼が最初でした。のちに同じことをしたのは、1987年のスティーブン・ロッシュと、2024年のタデイ・ポガチャルだけです。52年後の2026年の世界選手権は、またモントリオールで開かれました。

出典(2件)

UCI(2026年9月10日):「an incredible memory. It was my third [UCI] World Championship victory after an incredibly busy 1974 season, where I won the Giro d'Italia and the Tour de France」「Initially, they said the course was suited for sprinters, but Mount Royal turned out to be something quite different from a sprinter's course. It was a very tough race, with [Bernard] Thévenet leading a long breakaway」「only 18 of the 70 starters reached the finish」「I was able to attack and only Poulidor was able to follow me, but I managed to beat him in the sprint」「Twenty-one 12.5 km laps, totalling 262.5 km」「the first rider to win the Giro d'Italia, the Tour de France and the UCI Road World Championships in the same year, a feat matched only by Stephen Roche in 1987 and Tadej Pogačar in 2024. Already crowned in 1967 and 1971」「Only once before had any part of the Championships left the continent: in 1968, the amateur road race and team time trial」。本人の談は英語で掲載 ↗UCI(2024年8月25日):「On 25 August 1974, Belgian Eddy Merckx won the Men Elite road race at the UCI Road World Championships in Montreal」 ↗

最後のレースは12位、自転車を降りてすぐ「これが最後だ」

1975年のツールでは、山頂にゴールするステージで、ゴールの手前で観客の男に殴られます。数日後にはスタートへ向かう途中で別の選手とぶつかり、顔の骨を折りました。ものもうまく食べられないままパリまで走り、総合2位で終えています。勝ったのはテブネでした。のちに本人は、あそこでやめなかったのは間違いだったと認めています。

1977年の冬は、翌年のチームにお金を出してくれる会社探しに追われました。決まりかけた契約は、ジャージまでできあがったあとで白紙になります。最後に名乗り出たのは、衣料品チェーンのC&Aでした。

1978年3月19日、ベルギーの1日だけのレースで、メルクスは12位でした。「レースのあと自転車を降りて、すぐ自分に言った。これが最後のレースだ」。体はまだ動いていました。「でも、もう情熱が残っていなかった。……冬に、あまりにいろいろありすぎた」。引退を正式に発表したのは、5月18日です。32歳でした。40年後には、こうも話しています。「あのとき、何か月か休めばよかったのかもしれない」

ツールで挙げたステージ34勝は、長く最多記録でした。最後の34勝目から46年後の2021年に、マーク・カヴェンディッシュが並びます。2024年7月、カヴェンディッシュが35勝目を挙げると、メルクスはこう祝いました。「歴史に残る走りをおめでとう、マーク。ツールでぼくの記録を破った、いいやつだ」

出典(6件)

Cycling Weekly(2015年6月17日):「almost within sight of the finish, a French spectator emerged from the crowd and punched Merckx」「Riding to the start he collided with Denmark's Ole Ritter and fell on his face, breaking a cheekbone.」「he had difficulty eating」。この記事は第14ステージを「a mountain time trial」と書くが、1975年の第14ステージはオーリヤックからピュイ・ド・ドームまでの174kmの山岳ステージなので、そちらを採った。殴られた場所は出典によって腹・肝臓・腎臓と割れるので書かなかった ↗Wikipedia「1975 Tour de France」の行程表:「Aurillac to Puy de Dôme」「Stage with mountain(s)」(7月11日、174km) ↗Sporza(2018年3月19日、本人へのインタビュー):「De Kannibaal reed de Tour toch nog uit op vloeibaar voedsel en pijnstillers en eindigde tweede, na de Fransman Thévenet.」「Net zoals het een fout is geweest om niet op te geven in de Tour van ’75.」「Op 12 december 1977, nadat de truitjes waren gefabriceerd, trokken ze toch de stekker uit de onderhandelingen.」「Uiteindelijk kwam C&A op de proppen.」「Uiteindelijk was mijn laatste koers de Omloop van het Waasland in Kemzeke. Ik eindigde zelfs nog als twaalfde, als ik het mij goed herinner. Ik ben na de koers van mijn fiets gestapt en ik zei direct bij mezelf: dit is de laatste keer dat ik gekoerst heb.」「Ik verzorgde mij goed en was fysiek zeker nog in orde.」「Maar het heilige vuur ontbrak. Ik was vooral moegestreden door de zenuwen en stress in mijn hoofd. Ik had té veel meegemaakt in de winter」「Even later op 18 mei kondigde de meest succesvolle renner aller tijden ook officieel zijn afscheid aan」「op zondag 19 maart 1978, hing Eddy Merckx zijn koersfiets op 32-jarige leeftijd aan de haak」「Ik had op dat ogenblik misschien gewoon een paar maanden moeten rusten.」 ↗The Guardian(2013年6月29日、本人談):「I made a big mistake in 1975 , when I had a crash in the Tour de France and broke my jaw」。骨折した場所を Cycling Weekly は頬骨、The Guardian はあごと書くので、本文は顔の骨とした ↗J SPORTS(2021年7月10日):「1975年大会で区間34勝目を上げてから46年」 ↗Paris Match Belgique(2024年7月3日、本人のインスタグラムのストーリーから):「"Félicitations Mark pour cette prestation historique. Un bon gars qui a battu mon record sur le Tour"」 ↗

ベルギー代表の監督として、宇都宮で「いちばん長い1km」

引退から2年後の1980年、メルクスは自分の名前でロードバイクを作り始めます。1986年からは、ベルギー代表の監督も務めました。

1990年9月2日、世界選手権のプロのロードレースは宇都宮で開かれました。ベルギー代表はレースの5日前に成田に着きました。医学の教科書からすれば最悪の日取りだと、周りはあきれていました。メルクスは意に介しません。「日本のことも、ここの天気のことも知っている。これがいちばんいいと思った」。滞在中のパンクは17回にのぼりましたが、レースではベルギーの2人が残り10kmで抜け出し、そのまま1位と2位でゴールします。監督になって初めてのメダルでした。仲のいい2人のどちらかが負けなければならないのは酷だという声に、メルクスはこう返しています。「でも、こういう2位なら、15位よりいい」

「選手として、張りつめた場面は何度も味わってきたけれど、日本でのレースの最後の1km、2人がゴールへ向かっていたあいだは、キャリアでいちばん長い1kmに感じた」

東京五輪で初めて日本に来たメルクスは、2008年の取材で、世界選手権なども含めて5回くらい来ていると話しています。引退から30年たっても、自転車には乗り続けていました。「今でも自転車は楽しいです。週末だけですが、年間で5〜6000kmは走ります。まあ、ゆっくりと時速30kmくらいで流す程度ですけどね」

出典(4件)

Eddy Merckx(自転車ブランドの公式サイト):「Founding 1980」「Two years after the end of his professional career, Merckx decides to manufacture steel racing bikes himself.」 ↗De Arbeiderspers(1990年9月3日、宇都宮から):「Dinsdag geland op Narita, Tokio, dat betekende dat zij zondag hun zesde dag ingingen in Japan. Fouter kan het niet, zo leerde het simpelste medische handboek.」「't Is wreed, dat één van de twee moest verliezen." „Maar," zei ploegleider Merckx, aan zijn zesde WK en tot zondag nog louter met nieten terug naar België, „ge kunt beter zó tweedes worden als vijftiendes."」「Ik ken Japan, ik ken het weer hier. Dit leek me het best.」「Het énige is dat we zeventien lekke banden hebben gereden.」「De Wolf en Dhaenens zijn al jarenlang goed bevriend.」「het beslissende gat sloeg op 10 km voor het einde」 ↗Limburgsch Dagblad(1990年9月4日、ベルギー各紙の論評から):「Voor de ploegleider was het de eerste medaille sinds hij vier jaar geleden de leiding kreeg over de nationale selectie.」「Ik heb als renner vaak de topspanning meegemaakt, die kenmerkend is voor topsport, maar de laatste kilometer van de wedstrijd in Japan, toen Dhaenens en De Wolf op weg waren naar de eindstreep, heb ik toch als de langste kilometer ujt mijn loopbaan ervaren.」(ujt は紙面の文字認識のまま) ↗CYCLINGTIME.com(2008年11月19日、日本語で掲載、2015年10月のアーカイブ):「オリンピックで初めて来て、世界選手権など計5回くらい来ています。」「今でも自転車は楽しいです。週末だけですが、年間で5〜6000kmは走ります。まあ、ゆっくりと時速30kmくらいで流す程度ですけどね。」 ↗

この記事の選手

エディ・メルクスの写真

Eddy Merckx

エディ・メルクス

1978年引退

ジロ、ツール、世界選手権を同じ年に勝った最初の選手。ブエルタも含め、グランツールを11回勝った人です。

管理人のひとこと

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エディ・メルクスという名前は知っていましたが、その人生についてはあまり知りませんでした。この記事を書く中で、彼の偉大さを知ることができました。

引退した2年後、メルクスは自分の名前でロードバイクを作り始めます。紹介するのは、メルクスの名前が入ったサイクルキャップと、彼の伝記の英語版です。

この記事を書いた人

Grand Tour Hub 管理人

ロードレースの面白さを初心者目線で伝えるファンサイトの管理人。いちばん好きなのは、ゴール直前までもがいてスプリンターを発射させたアシストが、仲間の勝利を確信して、自分はまだゴールの手前なのにガッツポーズをする瞬間です。

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