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今中大介——シマノの社員のまま1996年のツールを走り、日本人に道を開いた

1996年、今中大介はツール・ド・フランスを走りました。日本人が初めてツールに出てから、70年後のことです。シマノの社員のまま、31歳になる年にイタリアへ渡った選手でした。ゴールのパリには届きませんでした。引退レースのジャパンカップは4位で、勝ったのはシマノの後輩でした。その歩みを、いくつかの場面から見ていきます。

2026-10-25 公開

自転車部を自分で作り、シマノの社長に手紙を書いた

今中大介は1963年、広島に生まれました。中学生のころ、スポーツタイプの自転車が欲しくて眺めていた雑誌に、ツール・ド・フランスの特集が載っていました。「こんな世界があるんだ」と思ったそうです。地元の川沿いでは、近くの大学生たちが細いタイヤのロードレーサーで走っていくのを何度も見かけます。中学生のうちに、広島から山口県の秋吉台まで片道150kmを走ったこともありました。

高校では陸上部で中・長距離を走りましたが、目立つ成績は残せませんでした。お年玉をためた約10万円で、中古のロードレーサーを買います。高校を出てから2年間浪人し、予備校で知り合った友人と広島のあたりを100km以上走りました。その友人に誘われて出た市民レースが、競技の始まりです。

大分大学では、最初はパワーリフティング部に入りました。地元のレースで好成績を挙げると、県の自転車競技連盟の役員から、大学に自転車部を作ってはどうかと声をかけられます。今中は連盟から自転車を10台ほど借り、下宿の1年生を誘って、2年生のときに愛好会を作りました。正門の坂を駆け上がって練習する姿を見た教授が、顧問を引き受けてくれます。大学の全国大会のインカレにはロード用とトラック用の2台を抱え、夜行列車でひとりで向かいました。大学院に進むと教授に「もう自転車はやめろ」と言われましたが、やめられませんでした。2013年のインタビューでも、単位が足りない夢を見ると笑っていました。

大学院を終える前、今中はレーシングチームを持つシマノへの入社を望み、島野尚三社長に手紙を送ります。エンジニアと選手の両方をやらせてほしい、という願いでした。面接で返ってきたのは「レースの世界は甘くないから、やるんだったら徹底的にやれ」という言葉です。1990年に選手として入社した今中は、その年のツール・ド・北海道で総合優勝します。シマノレーシング1年目の無名の選手が勝ったことに、周りは驚きました。今中はこのレースを3度制しています。

出典(7件)

時事ドットコム(2013年5月、本人へのインタビュー1ページ目):「スポーツタイプの自転車が欲しくて眺めていた雑誌にあったツールの特集を見て「こんな世界があるんだ」と。中学生の頃です。」「僕は予備校に2年行ったんですよ、2浪しまして(笑)。その予備校に自転車に乗っている友人がいて、一緒に百何十キロと地元の広島あたりを走っていたんです。その彼が「レースに出る」と。で、市民レースに出たのが競技の最初です。」「大学ではパワーリフティング部に入ったんですが、それをしながら県の連盟のレースにも出たら、そこから声を掛けていただいて。自転車を10台ぐらい貸していただき、下宿の1年生を勧誘してサークルを始めたんです。」「教授にも「もう自転車はやめろ」と言われて、最初は我慢してたんですけども、やめられなくって続けてました。今でも単位が足りないとか、論文どうしようとか、そういう夢を見ます(笑)。」 ↗時事ドットコム(2013年5月、本人へのインタビュー2ページ目):「エンジニアと選手のどっちもさせてくださいと社長に手紙を書いたんです。そしたらちゃんと読んでくださって、面接時に「レースの世界は甘くないから、やるんだったら徹底的にやれ」と。結局はレース専門で入るような感じになりました。」 ↗産経新聞(2022年12月28日、令和人国記):「自転車は高校時代にお年玉をためた約10万円で、中古のロードレーサーを購入しました。」「広島の高校時代は陸上部で中・長距離の選手でしたが、パッとした成績は残せません。」「地元レースでの好成績で県の自転車競技連盟の役員に「大学に自転車部を作れば」と声をかけられ、下宿の後輩を誘って、自転車愛好会を作りました。」「大学院修了を前に、レーシングチームがある(自転車部品製造の)シマノへの入社を希望し、当時の島野尚三社長に手紙を送り、エンジニアと選手で入社したいと要望しました。」 ↗ファンライド(2022年11月17日、本人へのインタビュー前編):「地元広島の川沿いを、近くの大学生たちが革製のカスクをかぶって当時ロードレーサーと呼ばれていた自転車で走っているのを何度も見かけた。」「初めて出場したインカレは、1人で群馬まで遠征。ロードとピストの2台の自転車を抱えて夜行列車で移動し」「1990年にシマノに入社し」「さっそく1年目でツール・ド・北海道で総合優勝を飾る。」「ツール・ド・北海道は3度制し」「1963年生まれ、広島県出身。」 ↗今中大介のブログ(2017年11月26日、ツールへの道 私の原点):「パワーリフティング部から転身して、自転車部を作ったのが大学2年の時」「正門の坂を駆け上がる私達を、筑波から来られた前田寛教授がご覧になられて顧問になってもらったのがはじまり。」 ↗今中大介のブログ(2017年9月17日):「実は、私が中学生の頃に、広島から片道150kmを走ってやって来たことがあります」(秋吉台) ↗今中大介のブログ(2022年2月4日):「当時、シマノレーシング1年目の無名選手の総合優勝に驚かれました。」(ツール・ド・北海道) ↗

イタリアの名門チームへ渡り、監督に毎日メモを届けた

世界選手権にも出るようになったころ、今中はシマノ・ヨーロッパのレーシングチームの先輩に声をかけられます。「お前、そろそろプロってどうか」。ヨーロッパのプロチームへ移ってはどうか、という誘いです。2年浪人して大学院まで行き、もう若くはありません。無理だろうと思いながらも、このまま引退するよりはと挑戦を決めました。社長は代替わりして島野敬三社長になっていて、相談すると「じゃあ2年間だけ時間を与えるからやってみるか」と背中を押されます。1994年、今中はイタリアの名門ポルティと契約しました。31歳になる年でした。今中はシマノの社員のままポルティで走り、機材についてのレポートもシマノへ送っていました。

イタリアに着いて最初の2週間、チームからは何の連絡もありませんでした。すぐに帰されると思った今中は、その日の練習の内容をメモに書き、毎日ジャンルイジ・スタンガ監督に渡しに行きます。「また来たのか」と苦笑いされ、監督が昼寝をしていることもありました。やがて監督は根負けし、「わかった、レース出してやるから」と言いました。

日本では自分が勝ちにいく選手でしたが、ここでの役目は、チームが勝たせたい選手であるエースを助けるアシストです。ボトルを運び、残り150kmでエースにタイヤを渡して、そこから必死にゴールを目指した日もあります。

1994年の春、今中はベルギーで1日で争われる伝統のレース、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュに出ます。役目は、元世界王者のエース、ジャンニ・ブーニョのアシストでした。ブーニョは同じ春、ロンド・ファン・フラーンデレンという大きな1日のレースを勝ったばかりです。レース当日のイタリアのレプッブリカ紙は、今中の加入を皮肉まじりに書きました。ブーニョはよほど調子がいいに違いない、シマノの「無名の日本人エンジニア」をチームに迎える余裕があるのだから、という皮肉です。記事は今中を「イアマナカとかいう男」と呼び、名前のつづりさえ間違えていました。元世界王者の隣を走らせるのは「風変わりな実験」だ、とも書いています。

スペインのバスク一周では、先に飛び出した強力な選手たちを追うため、エースを除く8人のうち7人で集団の先頭を引きました。先頭は風をまともに受ける位置です。「4%ぐらいの上りを40km/hで走って行かないといけない」。テレビ中継もあるなか集団から遅れずにしのいだその日が、いちばんの思い出だといいます。

1996年からポルティで一緒に走ったチームメイトは、のちにこう振り返っています。「ステージ中の苦しみや印象を彼に話してもらうのは、いつも冒険だった。彼は僕らのマスコットのような存在で、夜になって彼の話を聞くのが待ち遠しかった」

出典(6件)

時事ドットコム(2013年5月、本人へのインタビュー2ページ目):「世界選手権などにも出ていたので、シマノ・ヨーロッパのレーシングチームの先輩に「お前、そろそろプロってどうか」と言われて。2浪して大学院も行って年も食ってますし、新人もないなという状況で(笑)、そんなん無理だろうと思ったんですが、このまま引退するよりはダメもとでチャレンジしてみようと決断しました。」「行ってすぐの頃には、日本でトップといっても、まったくレースの「レ」の字も出てこないような、そんな状態が2週間ほど続きました。もうそのまま帰されるんじゃないかと思って、焦って焦って。毎日「また来たのか」と苦笑いされながらトレーニングの状態を監督に報告しました。」 ↗ファンライド(2022年11月17日、本人へのインタビュー前編):「当時、島野敬三社長に代わっていましたが、お願いしたところ『じゃあ2年間だけ時間を与えるからやってみるか』と背中を押してもらいました」「最終的にイタリアの名門ポルティと契約。」「すでに31歳になる年だった」「シマノの社員でもあったので、機材に関するレポートも送っていた。」「しかし、イタリアに渡って最初の2週間はチームから何の連絡なかった。すぐ帰されると思い、毎日ジャンルイジ・スタンガ監督へトレーニングした内容のメモを書いて渡しに行っていた。スタンガ監督は昼寝していることもあったが、ついに「わかった、レース出してやるから」と今中さんの熱意に根負けし」「日本では自らが勝利を目指す立場だったが、ヨーロッパではアシストに役割が変わった。」「ボトル運び、パンク対応…….。残り150kmでエースにタイヤを与えて必死にステージを完走することもあった。」「チームはエースを除く8人中7人で集団を引っ張り、追いかけることになった。」「4%ぐらいの上りを40km/hで走って行かないといけない。」「テレビ中継もあったので自分が集団から中切れしたらかっこ悪い。なんとかしのいだのが一番の思い出。」 ↗la Repubblica(1994年4月17日、Eugenio Capodacqua):「Bugno dev' essere in grandissima condizione se si permette il lusso di accogliere in squadra un anonimo ingegnere giapponese della Shimano (colosso della componentistica ciclistica, che fornisce il suo team), tale Iamanaka. Pedalerà accanto all' ex campione del mondo. Un esperimento singolare」「il corridore riemerso con la vittoria nel Giro delle Fiandre」 ↗今中大介のブログ(2018年4月22日):「……ポルティチームでプロデビューしたばかりの頃、ジャン二・ブーニョ(イタリアの英雄)のアシストを仰せつかって出場しました。」(リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ) ↗今中大介のブログ(2021年3月27日):「敬三社長にヨーロッパに行って来いと言っていただいたな..」 ↗bici.PRO(2024年1月28日、ジュゼッペ・ゲリーニへのインタビュー):「Giuseppe Guerini con quella maglia ha corso per tre anni dal ’96 al ’98」「Era sempre un'avventura farsi raccontare le sue sofferenze, le sue impressioni durante le tappe. Era un po' la nostra mascotte e non vedevamo l'ora di arrivare alla sera per ascoltare i suoi racconti.」 ↗

1995年のジロを走り、監督に「ツールは違う」と諭された

1995年、今中はジロ・デ・イタリアに出ます。開幕の日のレプッブリカ紙は、出場する外国人選手108人を数えたうえで「日本人までいる」と書きました。

アシストとしての仕事はこなせていましたが、山では苦しみました。今中は、大会でいちばん長い240kmの第14ステージでリタイアします。イタリアのウニタ紙は囲み記事を割き、残念ながら、と今中のリタイアを伝えました。記事は今中を「自転車界の三浦」と呼んでいます。同じシーズン、サッカーの三浦知良が、イタリアの1部リーグのセリエAで、ジェノアの選手としてプレーしていました。記事によれば、今中は全ステージの合計タイムで争う総合順位で最後まで最下位のまま、多くを語らず、毅然としてジロを去りました。

記事には、スタンガ監督の言葉も載っています。「山ではひどく苦しむ。だが駄馬ではない。でなければ、ジロに来てさえいない。平地と下りでは逆にすごい。めちゃくちゃに飛ばすので、うんと高い保険をかけてあるくらいだ」。記事は今中を、選手であり、エンジニアであり、シマノのテスト役でもあると紹介し、脚だけでなく頭も使える男だと書きました。沿道には「イマナカ・ファンクラブ」と書かれた横断幕も出ていたそうです。

ジロのあと、今中は監督に「この先、ツールってないのかな?」と聞いてみました。監督はあきれて、こう諭したといいます。「ツールは違うんだ。世界が違うから」。今中には、門が閉じているように感じられました。

出典(4件)

la Repubblica(1995年5月13日、Eugenio Capodacqua):「Gareggiano 108 stranieri, c' è persino un giapponese, Daisuke Imanaka.」「La tappa più lunga sarà invece la Trento-Val Senales, di 240 chilometri.」 ↗l'Unità(1995年5月29日、囲み記事「Imanaka fans club」):「con rammarico dobbiamo segnalare il ritiro di Daisuke Imanaka, il Miura del ciclismo」「Imanaka ha resistito fino alla tappa di Val Senales. Coerente fino all'ultimo (sempre maglia nera), il corridore della Polti, si è staccato dal Giro chiudendosi in un dignitoso riserbo.」「corridore, reporter, ingegnere, uomo test per la Shimano. Un uomo insomma che, oltre alle gambe, sa utilizzare la testa」「«In montagna fa una gran fatica. Però non è un brocco, altrimenti al Giro non sarebbe neppure venuto. In pianura e in discesa, invece, è formidabile. Va come un matto, tanto che gli abbiamo stipulato una fortissima assicurazione»」「"Imanaka Fans club" si leggeva ieri su uno striscione.」 ↗時事ドットコム(2013年5月、本人へのインタビュー3ページ目):「2年目にはツール・ド・フランスと並ぶ3大ツールの一つ、ジロ・デ・イタリアに出場(第14ステージでリタイア)されました。」「アシストとしての仕事を普通にできていましたから、こなせる自信はありました。それで、監督に「この先、ツールってないのかな?」と生意気にも聞いたら、監督はあきれて「ツールは違うんだ。世界が違うから」と諭されて。」「門が閉じてる感じでした。」 ↗三浦知良 — Wikipedia(日本語):「1994-95シーズン、イタリア・セリエAのジェノアCFCへ期限付移籍し」 ↗

1996年、ツールを去った涙が、片山右京を動かした

その年に走るレースの予定は、1月の合宿で選手に示されます。1996年、今中の予定表にツールは入っていませんでした。ところが途中から、ツールに出る組と同じレースを走るようになります。出場を告げられたときは、有頂天になったそうです。大会の前に各チームの選手が紹介される式典、チームプレゼンテーションの控室では、仲間たちが「おー、お前出ることになったのか。良かったな」と声をかけてくれました。ツールの舞台に立って、ようやく仲間として認められたように感じたといいます。

こうして1996年、今中は少年時代から憧れていたツール・ド・フランスに初めて出ます。日本人のツール出場は、1926年に川室競が初めて走ってから70年後のことでした(川室は翌1927年にも出ています。続く日本人は、1996年の今中まで現れませんでした)。もっとも、その川室の記録は、今中の出場をきっかけに過去を調べて分かったことだといわれています。開幕の時点ではまだ知られていなかったので、今中は「日本人初」として迎えられました。

開幕は、オランダでのプロローグという短い個人タイムトライアルでした。チームは時間に余裕を持って会場へ向かいましたが、観客の多さで道が渋滞し、なかなか進めません。今中は自分でタイムトライアル用の自転車に乗り、大観衆をかき分けてスタート地点へ向かいます。着いたのはスタートの数分前で、ウォーミングアップもしないまま走りました。「あのときは日本人初、アジア人初ということで注目されていたので、中継ヘリがずっとついてきていた」

取材も連日でした。一度は断ろうとしましたが、当時ツールを放送していたフジテレビのカメラマンに「日本のみなさんが待ってるので、一言お願いします」と言われ、考えを改めます。「レースのことだけで精いっぱいだったけど、応援してくださるみなさんがあってのことだ」

アルプスに入った第7ステージでは、エースのルブランがステージ優勝し、今中もアシストとしてその勝利を支えました。少年時代に写真で見た景色を思い出し、こう感じたそうです。「あの世界に自分がいるんだな」

「山は好きだけど、山が僕を好きかどうかは分からない」。今中はそう話していたと、英語の自転車ニュースサイト、サイクリングニュースは伝えています。悪天候で体調を崩しながらも、今中は走り続けました。そして第14ステージで、制限時間に間に合わずレースを去ります。各ステージには、勝者のタイムから決まった時間のうちにゴールしなければならない決まりがあるのです。この日の今中は、勝者から40分以上遅れてゴールしていました。全ステージの合計タイムで見ると、今中はレースに残っていた選手のうち140位で、最下位でした。

のちに今中は元F1ドライバーの片山右京に、このツールの思い出を話しています。「……最後にリタイアになったときには、本当に泣いた」。それを聞いた片山は、「じゃあいっちょうやってみるか」と思ったといいます。「ゴールできなかった今中を、今度はゴール地点の(パリの)シャンゼリゼまで連れて行こうって」。そう話したあとで「半分シャレで、ですけどね」と笑いましたが、この話は片山が自転車のチームを作るきっかけのひとつになりました。今中は、そのチームに技術面の相談役として迎えられています。

出典(8件)

ファンライド(2022年11月17日、本人へのインタビュー後編):「プロとして力をつけていった今中さんは、1995年ジロ・デ・イタリア、そして1996年に少年時代から憧れだったツール・ド・フランスに初出場する。」「この年はオランダでのプロローグ。チームは時間に余裕を持って会場入りしようとしたが、多くの観客で交通渋滞が起こり立ち往生。」「結局、今中さんは自らTTバイクに乗ってスタート地点まで向かうはめに。大観衆をかきわけながら進み、会場に到着したのはスタートの数分前。」「結局、ウォーミングアップせずにTTを走りました。あのときは日本人初、アジア人初ということで注目されていたので、中継ヘリがずっとついてきていた。」「日本人でツールに初めて出場したのは1926、27年に個人参加選手として出走した川室競(かわむろ・きそう)だが、実は今中さんの出場を機に過去の記録を調べた後に明らかになったこと。埋もれていた歴史を掘り起こすほど、エポックメイキングな出来事でもあったのだ。」「一度取材を断ろうとしたとき、当時ツールを放送していたフジテレビのカメラマンに「日本のみなさんが待ってるので、一言お願いします」と言われ、「レースのことだけで精いっぱいだったけど、応援してくださるみなさんがあってのことだ」と考えをあらためた。」「第7ステージは、アルプスでの山岳コース。エースのルブランがステージ優勝を挙げ、今中さんはアシストとして勝利に貢献。少年時代に写真で見た景色を思い出し、「あの世界に自分がいるんだな」と感慨が押し寄せてきた。」 ↗J SPORTS(2025年6月24日、ツールを走った日本人ライダーたち):「ツール・ド・フランスを走った日本人選手は、歴史上4人います。」「日本人として初めてツールの舞台にあったのは、川室競(かわむろ・きそう)氏。」「当時フランスに住んでいた氏は、1926年大会に初出場。翌年にも出場しており」「それから70年のときを経て、ツールの扉を開いたのは今中大介さん。」「チーム ポルティの一員として1996年に初出場を果たすと、第14ステージでタイムアウトに終わった」「そして2009年、日本人選手のツール初完走を2人の選手が成し遂げます。」 ↗Cyclingnews(2009年6月9日):「In 1996, Daisuke Imanaka started the Tour for Polti and didn't make the time cut on stage 14」 ↗web Sportiva(2014年5月12日、片山右京の連載):「やがて、悪天候の影響で体調が悪化しはじめた。それでも走った。だが、第14ステージでついに、タイムオーバーとなる。」「その今中が片山に、自分が参戦した1996年のツール・ド・フランスの思い出話を語った。」「『......最後にリタイアになったときには、本当に泣いた』。そう聞いたときに、うまく言えないけど、じゃあいっちょうやってみるか、と思ったんですよ。ゴールできなかった今中を、今度はゴール地点の(パリの)シャンゼリゼまで連れて行こうって」「そう言ったあと、「半分シャレで、ですけどね」と、片山は笑みを浮かべる。」「僕の育った環境や背景に対する、今度は自分からの恩返しと、1本の映画と、そして今中大介と。それらが混ざり合って、チームを作ることになったのだろうなと思う。」 ↗cyclowired(2014年、チーム右京2014年体制):「片山 右京(チームオーナー・監督)」「今中 大介(テクニカルアドバイザー)」 ↗時事ドットコム(2013年5月、本人へのインタビュー3ページ目):「1年間のスケジュールは1月の合宿中に決まってるんです。」「そのリストにはなかったんですが、途中からツール出場組と同じレースを走り始めたんで、もしかしたら行けるかなと。出場を言われた時はそりゃもう有頂天になりました。」 ↗時事ドットコム(2013年5月、本人へのインタビュー4ページ目):「自分がツールに出ることになって、チームプレゼンテーションの控室に入った時に、みんなが「おー、お前出ることになったのか。良かったな」と言ってくれ」「やっぱりツールの舞台に立たないと一人前と思われないんだな、ようやく仲間になったようだな、と。」 ↗Cyclingnews(1996年7月、第14ステージ):「"I love the mountains but I am not sure if they like me," Imanaka had said.」「came in over 40minutes behind the stage winner」「He was 140th and last overall of the surviving riders in the race」 ↗

引退レースのジャパンカップで4位、勝ったのはシマノの後輩

1997年、今中は春先から調子が上がりませんでした。ヨーロッパのレースに加えて日本のレースにも出ていて、疲れがたまっていたといいます。「まだまだ頑張れると思ったが、3年間プロとして思い切りやったので、身体が硬直してしまって調子が悪かった」。出るレースが少しずつ減り、今中は引退を決めます。

最後のレースは、宇都宮のジャパンカップでした。この年の最大のライバルは、シマノ時代の後輩で、イタリアのマペイに入っていた阿部良之です。今中を含む9人の先頭集団から、前年の覇者でフランセーズ・デ・ジューのマウロ・ジャネッティが飛び出します。これに今中と阿部、そして阿部のチームメイトのアンドレア・タフィが反応し、4人で最終周回に入りました。マペイの2人の連携で、阿部が先にゴールへ向かいます。ジャネッティが遅れたあと、タフィが一気に加速して今中を振り切ります。タフィは阿部に追いつき、2人は手を取り合ってゴールしました。勝ったのは阿部で、日本人がこのレースを勝ったのは初めてでした。今中は13秒遅れの4位です。

今中は、このレースをこう振り返っています。「変な終わり方したくない、ちゃんと仕上げて走りたい気持ちで臨みました。最後は自分でも満足できる走りになったかなと思うし、応援しがいのあるレースができたかな。みなさんによくしていただいて、応援してもらって幸せな選手生活でした」

出典(2件)

ファンライド(2022年11月17日、本人へのインタビュー後編):「翌1997年は春先からなかなか調子が上がらなかった。ヨーロッパでのレースに加え、日本でもツール・ド・おきなわなどに参戦していたので、疲労も蓄積していた。」「まだまだ頑張れると思ったが、3年間プロとして思い切りやったので、身体が硬直してしまって調子が悪かった」「次第に出場するレース数も少なくなり、引退を決意。最後のレースは宇都宮のジャパンカップで、4位と奮闘した。」「変な終わり方したくない、ちゃんと仕上げて走りたい気持ちで臨みました。最後は自分でも満足できる走りになったかなと思うし、応援しがいのあるレースができたかな。みなさんによくしていただいて、応援してもらって幸せな選手生活でした」 ↗ジャパンカップ公式(1997年大会の記録):「今中大介の引退レースとなったこの年、最大のライバルはマペイチームに所属するシマノ時代の後輩、阿部良之だった。」「レースは今中らを含む9選手の第1集団から、前年の覇者ジャネッティがアタック。これに今中、マペイのタフィと阿部が反応して最終周回に突入した。」「マペイのチームプレーによって阿部は最後の力を振り絞ってゴールへ。ジャネッティが脱落した後、タフィは一気に加速して今中を振り切ると、先頭の阿部まで追いつき、手に手を取り合ってゴール。」「優勝の栄冠は阿部が手にして日本人の勝者が初めて誕生した。」「1. 阿部良之 (マペイ 日本)」「2. アンドレア・タフィ (マペイ イタリア)」「3. マウロ・ジャネッティ (ラフランセーズデジュ スイス) +06」「4. 今中大介 (ポルティ 日本) +13」 ↗

13年後、パリまで走りきった別府に「おめでとう」と言った

引退した今中は、自転車用品を輸入する会社インターマックスを興しました。ヨーロッパ時代にいろいろなメーカーの機材を試してきた、そのつながりを生かしたのです。

2009年、別府史之と新城幸也がツールに出て、日本人として初めてパリまで走りきります。今中の出場から13年後のことでした。その年、今中は鈴鹿で別府と対談しています。別府はこの対談で、道を開いたのは今中だと話しています。まず今中が、ツールに出られることを示した。今度は自分たちが、そこで活躍できることを示した。だから広がりが生まれた、というのです。

今中は、自分がヨーロッパで経験してきたことを語っています。海の向こうでは名前も知られないまま、アシストに尽くさなければならない。それが続くと「アシスト癖」がつく。日本で持っていた勝つための勘も、全部捨てなければならない。そのうえで今中は、別府たちを日本人選手の第2世代と呼びました。別府が一度きりのチャンスではなく、何度でも力を出せる立ち位置まで来たことを喜び、こう続けています。「俺なんかプロ選手として成績を残していないけれど、幸せなことですよ。自分で幸せを勝ち取ったんだから。おめでとう!」

出典(2件)

ファンライド(2022年11月17日、本人へのインタビュー後編):「ヨーロッパ時代にいろんなメーカー・ブランドが開発した機材をテストしていたので、そのつながりを活かした輸入業を始めようと、インターマックスを創業した。」 ↗cyclowired(2009年9月3日、別府史之×今中大介 対談):「振り返るツール・ド・フランス2009 13年の空白を経て日本人がツールに残した足跡」「シマノ鈴鹿ロードレースに出場するために帰国。慌ただしいスケジュールの中、日本人として初めて近代ツールを走った先駆者・今中大介さんとの対談が実現!」「僕なんかはずっとそれを経験してきてるけれども、何にも名前が知られていない海の向こうで身を粉にして働いて、一介のアシストに尽きなくちゃいけない。それがずっと続くと、「アシスト癖」がついちゃう。日本ではかたや「勝ち癖」で、勝つための勘があるのに、それを全部捨てなくちゃいけない。だから今回第2世代が、新たな次元の選手たちがわかりやすい形で登場してきたな、という感じはしますね。」「ただ一度だけのチャンスとしてじゃなくてどんどん力を発揮できるような、そんな立ち位置になってきたので、すごく嬉しいし可能性の広がりを実感しています。」「俺なんかプロ選手として成績を残していないけれど、幸せなことですよ。自分で幸せを勝ち取ったんだから。おめでとう!」、別府「みんなが恐れて手を出せなかったところに手を出して、不可能だと言われていたものを、今中さんが出場できるってことを証明して今回、僕らがそれに出て活躍できるってことを証明したことで広がりが生まれたと思うんです。」 ↗

この記事の選手

Daisuke Imanaka

今中大介

1997年引退

日本人の初出場から70年後にツールを走り、あとに続く日本人選手たちへの道を切り開いた人です。

管理人のひとこと

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今中選手は2000年に、選手時代を自分で書いた本を出しています。題は『ツールへの道』です。1995年のジロと1996年のツールを、本人の言葉で読めます。

もう1冊は、今中選手が入社したシマノが、堺の町工場から自転車部品の「世界標準」になるまでをたどった本です。今中選手はポルティで走りながら、シマノの社員として機材のレポートを送っていました。

この記事を書いた人

Grand Tour Hub 管理人

ロードレースの面白さを初心者目線で伝えるファンサイトの管理人。いちばん好きなのは、ゴール直前までもがいてスプリンターを発射させたアシストが、仲間の勝利を確信して、自分はまだゴールの手前なのにガッツポーズをする瞬間です。

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