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ベルナール・イノー——「アナグマ」はシャンゼリゼでも勝ちを譲らなかった
ツール・ド・フランスを5回勝ったフランスの選手、ベルナール・イノーは「アナグマ」と呼ばれました。うるさくされたら穴に戻り、出てきたら噛みつく——あだ名について、本人はそう話しています。勝てる勝負は最後まで譲らず、「32歳でやめる」と言っていたとおり、32歳になる直前に現役を退いた人の話です。
2026-10-12 公開
16歳の初レースで負けた地元の少年は、その2位を誇る
ベルナール・イノーは1954年11月、フランス北西部ブルターニュの村で生まれました。父は国鉄の線路工で、本人によれば「いつもいたずらばかりしていた」子どもです。村は窪地にあって、外へ出るには必ず坂を上ります。町の中学校まで毎日20kmほどを自転車で通ううちに、前を走るトラックの真後ろについて、風よけにする走り方を覚えました。「そうやって、前の車輪にぴたりとつくことを覚えたんだ」
1971年5月2日、16歳で初めてレースに出ます。その朝、母にこう言って出かけました。「今夜は、きれいな花束をあげるよ。勝った人がもらう花束をね」。相手には、同じ年代のレースを全部勝って「ラ・テルール(恐怖)」と呼ばれていた地元の少年、ジャン=イヴ・オリヴィエがいました。本人の記憶では、最後の左カーブまで集団のなかで脚をためて、そこで抜け出して勝っています。花束は母に持ち帰りました。
2着のオリヴィエの記憶は、少し違います。2025年、地元の町の広報誌にこう書きました。「レースの半ばを過ぎて、ベルナールは、集団のなかで走るより気が楽だと逃げた。差が開くのを見て、私は追いついた。何周か一緒に回り、ベルナールは私の後ろについていた。ゴールの数百m手前で、ベルナールがスプリントを始めた。ずいぶん遠くからで、それで先にゴールした。このやり方は、そのあとも彼の持ち味になった。私は2位で、正々堂々と負けた。そのときは、もちろんがっかりした。でもいまは迷わず言える。この2位は、多くの勝利より価値がある」
イノーは1年目に20レースを走って12勝しました。「自転車で好きだったのは、いつも競うことだった。正々堂々の喧嘩だ。ある日負けても、次の日にはやり返す」
出典(3件)
franceinfo(60歳の誕生日の記事):「deuxième enfant d'une fratrie dont le père est un employé (poseur de rails) de la SNCF. C'est un enfant turbulent, "toujours prompt à faire des bêtises" raconte-t-il」「"Ce soir, tu auras un beau bouquet de fleurs, celui du vainqueur !", a-t-il lancé à sa mère le matin.」 ↗Cyclism'Actu(2025年12月23日、Ouest-France のインタビューから):「Yffiniac, c'est dans une cuvette, il faut forcément monter pour en sortir. À force de répéter la sortie tous les jours, j'arrivais à rester dans l'aspiration des camions. C'est comme ça que j'ai appris à « sucer » les roues !」「C'était à Planguenoual, le 2 mai 1971. J'ai battu Jean-Yves Olivier, qu'on appelait « La Terreur » parce qu'il gagnait toutes les courses chez les cadets.」「jusqu'à un dernier virage à gauche où j'ai saisi l'opportunité」「J'ai rapporté le bouquet à ma mère.」「La bagarre, à la régulière. Un jour, t'es battu, le lendemain, tu prends ta revanche.」「j'ai remporté 12 victoires en 20 courses.」 ↗Les Planguenouvelles(プラングノアルの町報、2025年6月、ジャン=イヴ・オリヴィエの寄稿):「Passé la mi-course, Bernard s'est échappé pour se sentir plus à l'aise que dans le peloton. Voyant l'écart augmenter, j'ai fait l'effort pour le rejoindre, nous avons fait quelques tours ensemble Bernard dans ma roue. A quelques centaines de mètres de l'arrivée, Bernard lançait le sprint...donc de très loin, ce qui lui a permis de passer la ligne en vainqueur, cette façon de faire lui restera. Je termine deuxième, battu à la régulière déçu sur le moment bien sûr. Mais aujourd'hui, je le dis sans hésiter que cette deuxième place vaut plus que bien des victoires.」 ↗
谷へ落ちた22歳は、最後の急坂を押してもらって勝った
イノーは1975年1月、20歳でプロになり、ジタンというチームに入りました。月給は2500フランで、当時の為替レートでおよそ17万円です。このシーズンの終わりからは、シリル・ギマールがチームの監督になります。1977年には、ベルギーのワンデーレース(1日で終わるレース)を同じ週に2つ勝ち、周りを驚かせました。その2つ目が、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュです。
6月4日、フランス・アルプスのステージレース、クリテリウム・デュ・ドーフィネ。イノーは峠の頂上を、後ろに1分40秒の差をつけて先頭で越え、全速で下りました。カーブをイン側ぎりぎりで回ろうとして、そのまま谷へ数m落ちます。低い木に引っかかって止まり、すぐに這い上がりました。ゴールまで6kmのところで別の自転車に乗り換え、そのあと後輪の交換でもまた時間を失います。最後に待っていたのは、グルノーブルの町なかにある、平均勾配14%の急坂でした。
そこで脚が止まり、イノーは自転車を降ります。2023年、こう振り返っています。「急に力が抜けて、足をついた。メカニックとシリルが、もう一度行けと励まして、100mくらい押してくれた。……そこからは、ずっと楽になった」。当時のテレビの記録では押したのは沿道の観客、別の記事ではチームメイトが助けたとされています。イノーはそのステージを勝ち、2日後には大会の総合優勝も決めます。2023年のその取材で、苦しくなかったのかと聞かれて、こう答えています。「勝つためにそこにいる選手は、あれこれ考えない。行くだけだ」
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franceinfo(60歳の誕生日の記事):「1er janvier 1975: le futur "Blaireau", qui s'est marié quelques semaines plus tôt à Martine, connue deux ans auparavant, devient coureur professionnel dans l'équipe Gitane dirigée par Jean Stablinski (remplacé par Cyrille Guimard en fin de saison), au salaire de 2500 francs par mois」「4 juin 1977」「deux jours plus tard, l'épreuve alpestre」 ↗FRED(セントルイス連銀)France / U.S. Foreign Exchange Rate: 1975年1月 4.3687(1ドルあたりフラン)。2500フランを、同じ月の円の対ドルレートで円に直した ↗FRED(セントルイス連銀)Japanese Yen to U.S. Dollar Spot Exchange Rate: 1975年1月 299.6845(1ドルあたり円)。1フランはおよそ68.6円、2500フランはおよそ17万円 ↗Larousse『Journal de l'année 1987』:「en 1977, c'est l'avènement : à la surprise générale, il triomphe au cours de la même semaine dans deux des plus belles classiques belges, Gand-Wevelgem et Liège-Bastogne-Liège.」 ↗France 3 Auvergne-Rhône-Alpes(2019年):「Arrivé au sommet avec une minute et quarante secondes d'avance, il entame alors la descente à toute allure. Il prend un virage à la corde.」「Bernard Hinault fait une chute de plusieurs mètres mais, stoppé par un arbuste, il se relève rapidement. A 6 km de l'arrivée, légèremment blessé, il remonte rapidement sur un autre vélo. Puis il perd encore de précieuses secondes lors d'un changement de roue arrière」「il peut compter sur ses équipiers qui le remettent en selle en un instant」 ↗France Bleu Isère(2023年6月10日、本人談):「" Ensuite j'ai eu un passage à vide , explique le quintuple vainqueur du Tour de France, j'ai mis pied à terre et puis le mécano et Cyrille (Guimard, son directeur sportif) m'ont encouragé à repartir, ils m'ont poussé sur une centaine de mètres [...] et après c'était beaucoup plus facile "」「" Je pense que quand on est coureur et qu'on est là pour gagner , dit Bernard Hinault, on ne se pose pas de question. On y va ! "」「la pente accuse 14% de moyenne」 ↗INA(FR3、1977年6月4日の放送の記録):「met pied à terre mais repart, poussé par les spectateurs, et gagne l'étape devant Lucien VAN IMPE et Bernard THEVENET.」 ↗
初めてのツールで、ストライキの先頭を歩いてゴールした
1978年、イノーは初めてツール・ド・フランスに出ます。この年のツールは、23日間で25ステージを走りました。開催する町を増やして収入を上げようと、主催者が1日を半分ずつ2つのステージに分けた日を作っていたからです。
7月12日もそういう日で、朝に158km、午後に98kmを走る予定でした。前の夜、選手たちがホテルに着いたのは21時過ぎで、まだ食事もマッサージも済んでいませんでした。寝るのが夜中になった選手もいました。そして夜明け前に起こされ、スタートは7時30分です。
その朝、選手たちはレースをしないと決めました。時速20kmほどで固まって走り、南西部のゴールの町に着くと、最後の直線で自転車を降りて歩きます。観客のブーイングを浴びながら先頭を歩いた数人のなかに、総合首位の選手と、初出場のイノーがいました。駆け寄って不満をぶつけた町長に、選手たちは、この町は自分たちのストライキのおかげで有名になる、と言い返しています。朝のステージは取り消されました。イノーはオランダの選手に推されて、選手たちの代弁役になっていましたが、新聞に首謀者のように書かれて、ひどく腹を立てています。
そのツールを、イノーは勝ちました。パリに着いた夜、テレビで、歯に衣着せない物言いについて聞かれると、こう答えています。「南西部であったことから、教訓を得た。これからは自分を抑えて、ずっと口数を減らすよ」。総合首位の黄色いジャージ、マイヨ・ジョーヌについては、こう話しました。「このジャージは、2、3年かけた仕事の結果だ。そして何より、チームメイトにとっては、働いた甲斐があったという満足なんだ」
出典(3件)
RTBF(2017年7月12日):「En 1978, le Tour compte 23 jours de course et 25 étapes. Les organisateurs ont décidé de dédoubler deux étapes pour multiplier le nombre de villes hôtes et augmenter leurs rentrées financières.」「158 km entre Tarbes et Valence d'Agen d'abord, 98km entre Valence d'Agen et Toulouse ensuite.」「Le départ était fixé à 7h30. La veille, certains se sont couchés aux petites heures. Ils n'avaient rejoint leur hôtel qu'après 21h, sans avoir mangé ni être passés au massage.」「Lorsqu'ils entrent dans la dernière ligne, les coureurs mettent pied à terre」「Ils lui répliquent alors que sa ville devient connue grâce à eux et à leur mouvement de grève. Finalement, l'étape du matin est annulée.」 ↗INA(1978年7月12日の放送の記録):「Ils roulent groupés à vingt à l'heure et franchissent la ligne d'arrivée à pieds」 ↗INA(1978年7月23日の放送から):「Hinault est poussé par le Néerlandais Gerben Karstens à être le porte-parole des coureurs en grève.」「présentent Bernard Hinault comme le meneur de cette grève, ce qui agace fortement le Breton」「" On en a tiré une leçon après les événements qu'il y a eu dans le sud-ouest et maintenant j'aurai plus l'occasion de me retenir et de parler beaucoup moins. "」「"Ce maillot jaune représente deux, trois années de travail et surtout pour mes coéquipiers, la satisfaction d'avoir travaillé pour quelque chose. "」 ↗
シャンゼリゼで2位の選手に頼まれても、勝ちは譲らなかった
1979年のツールの最終日、7月22日のパリまでのステージは180kmでした。イノーは2位に13分の差をつけて総合首位にいて、優勝はほぼ決まっていました。
それでもイノーは、パリへ向かう途中の坂で飛び出します。2019年に東京を訪れたとき、本人はこう話しています。「あの日は調子が良かったので、……単独アタックしてみたんだ」「マイヨ・ジョーヌを着ている事を理由に、保守的に走るのはつまらない。パリステージはパレードじゃないんだ」。追いついてきたのは、総合2位のヨープ・ズートメルクでした。2人はそのまま、ゴールのパリの大通り、シャンゼリゼまで逃げます。
35年後、イノーの60歳を祝う会で、ズートメルクはその日のことを話しました。「2人でシャンゼリゼに入ったとき、彼に言ったんだ。きみはツールを勝つんだから、シャンゼリゼのステージはぼくにくれよ、って。彼は、だめだ、だめだ、だめだ、スプリントだ、シャンゼリゼでプレゼントはなしだ、と言った」。勝ったのはイノーで、この大会7つ目のステージ優勝でした。
ズートメルクは、こう続けています。「彼は何ひとつ譲らなかった。それがベルナール・イノーだ。……恨んだことは一度もない。ぼくより強かったんだから」。その会を伝えた2014年の記事は、ズートメルクをイノーのいちばん親しい友人のひとりとして紹介しています。
勝負では何も譲らない人でしたが、勝ち取ったものは手放しています。ツールで手にしたマイヨ・ジョーヌのほとんどを、チームメイトや、メカニック、選手の体をほぐすマッサーに配りました。「この競技、特にツール・ド・フランス規模のレースでは絶対に一人の力では勝てないんだ」
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INA(1979年7月22日の放送の記録):「la 24ème et dernière étape du tour de France, une étape de 180 km entre le Perreux-sur-Marne et l'avenue des Champs-Elysées. Echappée royale des deux premiers du classement général」 ↗franceinfo(2022年):「le Breton est sûr de remporter son deuxième maillot jaune avec treize minutes d'avance sur Joop Zoetemelk」「pour son septième succès sur cette même édition」 ↗L'Avenir(2014年11月15日、ズートメルク談):「"On arrive tous les deux sur les Champs-Élysées, alors je lui dis bon, toi tu gagnes le Tour et tu me laisses l'étape des Champs Élysées. Il me dit non, non, non, on fait le sprint. Sur les Champs Élysées on fait pas de cadeau"」「"Il ne lâchait rien, c'est Bernard Hinault. […] Je ne l'ai jamais maudit, parce qu'il est plus fort que moi.」「qui est maintenant l'un de ses amis les plus proches」 ↗シクロワイアード(2019年6月4日、東京のトークショー):「あの日は調子が良かったので、シャンゼリゼに向かう途中にあったロム・モール(直訳すると“死んだ人“)坂で、単独アタックしてみたんだ。」「マイヨ・ジョーヌを着ている事を理由に、保守的に走るのはつまらない。パリステージはパレードじゃないんだ。」「私のツール優勝に貢献してくれたチームメイトたちに感謝の意を表して殆どをあげてしまったよ。」 ↗
雪のリエージュを勝った日は「まったく楽しくなかった」
1980年4月20日のリエージュ〜バストーニュ〜リエージュは、雪のなかのレースになりました。2020年のアメリカの雑誌の取材で、本人はこう振り返っています。「スタートのリエージュで、もう0度だった。町を出るとすぐに雪が降り出して、バストーニュの近くまで、ほとんどずっと降っていた」。手袋は、毛糸のものしかありませんでした。
折り返しのバストーニュの手前で、日が差しました。「たぶん、あれに救われた。……あれがなかったら、バストーニュの補給所でやめていたと思う」。監督のギマールには、本当のレースはこれからだから上着を脱げ、と言われました。この人は正気かと思いながら、イノーは体を温めるために集団の前へ出ます。
ゴールまで80kmのところからは、ひとりでした。2位の選手には9分24秒の差をつけます。174人が走り出して、ゴールまでたどり着いたのは21人でした。
両手の指は凍傷になり、元のように使えるまでに何週間もかかりました。2014年にも、両手の指に凍傷の名残を感じると話しています。ワンデーレースのなかでも格の高いものはクラシックと呼ばれ、イノーはこの日の勝利を、クラシックでいちばんの勝利だと言います。2020年には、こうも話しました。「振り返るのは楽しい。本当に特別なことをしたと分かっているからね。でも言っておくけれど、あの日はまったく楽しくなかった」
出典(3件)
VeloNews(2020年4月22日、英語の取材):「Already it was zero [degrees celsius] at the start in Liège, and then almost as soon as we left town it started snowing and it snowed almost all the way to Bastogne. But just before we hit the turn-around point in Bastogne, the sun broke through. That was perhaps what saved me! It was probably the only reason I stayed in the race. Otherwise I would have packed it in, at the feed-zone in Bastogne.」「I just had some wool gloves」「I have fun looking back on that victory, because I know that I really did something special. But let me tell you, I had absolutely no fun that day.」 ↗RTBF(2020年4月20日):「Au départ, ils étaient 174 coureurs, mais seuls 80 d'entre eux ont atteint Bastogne, et à peine 21 ont traversé l'arrivée au cœur de Liège.」「s'échappe à 80 kilomètres de l'arrivée」「Victime de gelures, il aura fallu plusieurs semaines à Bernard Hinault pour retrouver l'usage de ces doigts」 ↗UCI(2020年):「a lead of 9'24" over Hennie Kuiper」「"I can still feel it in the second finger of both hands", he told Fotheringham in 2014. A reminder of what he regards as his "greatest Classic victory".」 ↗
黄色いジャージのまま夜に去り、1か月半後に世界王者
1980年のツールでも、イノーは総合首位を走っていました。けれども膝を痛め、7月9日、ピレネーの大きな山岳ステージを翌日に控えたポーで、レースを去ります。夕食のあと、チームメイトの目立たない車に乗り、ホテルの厨房から出ていきました。ツールの主催者がそれを知ったのは、翌朝です。総合首位を受け継いだズートメルクは、次の日、黄色いジャージを着ることを断りました。
それから1か月半後の8月31日、世界選手権のロードレースがフランス・アルプスの町で開かれます。16年前、のちにツールを5回勝つベルギーのエディ・メルクスが、19歳でアマチュアの世界王者になったのと同じ町でした。イノーは、のちにこう振り返っています。「ツールを2回勝ったばかりで、当然、私が不正をしていると考える人もいたし、ポーでやめたのはその結果だと思われていた」。レースの前、チームメイトにはこう言いました。「10周、私を守ってくれ。あとは私がやる」
坂を20回上る周回コースで、107人が走り出し、ゴールしたのは15人だけでした。最後の上りで、まだついてきていた選手はひとりです。「彼の変速の音を聞いていた。ギアを変えたとき、ガチャッと鳴って、チェーンが狙った歯車に掛からなかった。私はギアを20Tのまま変えずに、すぐに10m離した。彼はサドルに腰を下ろした。それで終わりだった」。2位とは61秒の差で、これがイノーのただひとつの世界王者のタイトルになりました。
出典(5件)
Larousse『Journal de l'année 1981』:「Bernard Hinault, blessé au genou, abandonne la course, le 9 juillet à Pau, à la veille de la grande étape pyrénéenne alors qu'il est en tête du classement général.」 ↗VeloNews(2020年7月16日):「with the yellow jersey still on his shoulders, Hinault took flight, discreetly leaving his hotel through the kitchen after dinner with his teammate Hubert Arbes in an unmarked car. The Tour itself only learned of his sudden departure the next morning.」「Joop Zoetemelk, who was sitting in second, refused to wear the yellow jersey the following day」 ↗DH(2025年4月15日):「où Eddy Merckx a également été champion chez les amateurs en 1964」 ↗Le Quotidien du Sport(2022年11月11日):「Le 31 août 1980, un mois et demi après avoir abandonné sur le Tour de France」「« Je venais de gagner deux Tours de France et, forcément, certains pensaient que je trichais et que mon abandon à Pau en était une conséquence. »」「« Vous me gardez dix tours, et après je m'occupe du reste ! »」「c'est dans le 20ème et dernier passage au sommet de Domancy qu'il va lâcher Baronchelli, le seul qui s'accrochait encore」「« J'ai écouté son dérailleur, quand il a changé, ça a craqué et il n'est pas retombé sur la bonne dent. Moi, j'ai gardé le 20 dents, j'ai vite pris 10 mètres. Il s'est rassis, c'était fini ! »」「son seul titre de champion du monde」 ↗Flashscore(2023年7月18日):「Sur les 107 partants, seulement... 15 iront au bout.」「avec 61 secondes d'avance sur Baronchelli」 ↗
パリ〜ニースで労働者を殴り、40年たっても恨みは消えない
イノーのあだ名は、フランス語で「アナグマ」を意味する言葉です。2009年に来日したとき、本人は日本の取材に由来をこう話しています。もとは集団の選手たちが、互いに「やあ」と呼びかけるのに使っていた言葉だったそうです。2人のチームメイトが、これはイノーにぴったりだと言い出し、それを聞きつけた記者のピエール・シャニーがスポーツ新聞に書いて、あだ名になりました。2008年には、フランスの雑誌にこう答えています。「まったく気にならない。……うるさくされたら、穴に戻る。でも出てきたら、噛みつく」
1983年、膝の手術を受けたあと、イノーはギマールと別れてチームを出ます。のちに「人生にはそういうこともある。あるとき、別のものを見たくなったんだ」と話しました。イノーを中心に新しいチームを作ったのは、実業家のベルナール・タピです。「手術を受けたばかりの私を、彼は信じてくれた」
1984年3月12日、パリ〜ニースの峠道を、造船所や炭鉱の労働者たちがふさぎました。造船所が閉鎖されようとしていて、抗議のためでした。押し倒されたイノーは、そのひとりを殴ります。レースは30分止まりました。40年たった2024年にも、イノーはこう話しています。「あの日にしたことは何も後悔していない。でも、この一件は心に残った。いまも彼らを恨んでいる」「相手が誰なのかも知らなかった。……デモをするのはいい。でも、スタートかゴールでやってくれ。レースの最中はだめだ」
当時、造船所で労働組合の代表を務めていた男性は、こう話しています。「イノー氏の怒りは分かる。彼にとっても、走ることは生活の糧だった。でも、私たちの事情も分かってほしい」。翌日には、同じ労働者の仲間がスタート地点まで謝りに行ったといいます。
その年の7月、新しいチームで迎えたツールでは、1983年まで同じチームにいたローラン・フィニョンに10分32秒の差で敗れました。イノーはのちに、チームを出たのはいい決断だった、そのあとフィニョンとは激しく競り合えた、と振り返っています。
出典(8件)
シクロワイアード(2009年12月6日、東京での取材):「それは最初、選手たちがお互いを呼びかけ合う「掛け言葉」みたいなものだったんだ。」「そのうち2人のチームメイトが「これはイノーにぴったりだ」と言い出したんだ。そしてそれを聞きつけたピエール・シャニーというジャーナリストがレキップ紙に「ブレアロ、イノー」と書いたんだ。」 ↗Le Figaro(2014年7月25日、2008年の雑誌『Bretons』の本人談を引く。アーカイブ):「«Ça ne me dérange pas du tout. Quand on connaît l'animal, quand on le chasse. J'ai eu les mêmes réactions. Quand on m'emmerde, je rentre dans mon trou. Mais quand je sors, je mords».」 ↗franceinfo(2013年6月24日、本人談):「Il a fallu que je me fasse opérer au mois d'août」「"Ce n'est pas une blessure dans ma carrière. Ca fait partie des choses de la vie. A un moment donné, j'ai voulu voir autre chose.」「Je pense que c'était une bonne décision」「Et qu'on a eu de belles bagarres avec Laurent après. En 1984, en 1986"」「Le Tour de France 1983 a été remporté par Laurent Fignon (Renault)」 ↗Le Temps(2021年10月3日、AFP):「à qui Tapie, alors homme d'affaires peu connu, avait tendu la main fin 1983 pour bâtir une équipe autour de lui. «Je sortais d'une opération, il m'a fait confiance»」 ↗The Inner Ring(2012年3月5日):「The date is 12 March 1984 and the fifth stage of Paris-Nice takes the race from Miramas to La Seyne-sur-Mer.」 ↗INA(Antenne 2、1984年3月12日の放送の記録):「Renversé par des manifestants, Bernard HINAULT se jette sur un manifestants et le frappe.」 ↗France 3 Bretagne(2024年3月15日):「ce sont des mineurs de Gardanne et des ouvriers des chantiers navals de la Ciotat」「Les chantiers allaient fermer」「Neutralisée une demi-heure, la course finira par repartir.」「"Je ne regrette rien de ce que j'ai fait ce jour-là, mais cette histoire m'a marqué, souligne Bernard Hinault . Et je leur en veux toujours".」「"Je ne savais pas qui ils étaient」「Alors qu'il y ait des manifs, d'accord. Mais au départ, ou à l'arrivée. Mais pas pendant la compétition !」「À l'époque, Marc Bastide était délégué syndical CGT aux chantiers de la Ciotat. "Je comprends la colère de Monsieur Hinault, dit-il. Lui aussi, c'était son gagne-pain, de courir. Mais il faut comprendre notre situation.」「sont allés au départ de l'étape pour s'excuser」 ↗Larousse『Journal de l'année 1985』:「1. Fignon (F), en 112 h 03′ 40″ ; 2. Hinault (F), à 10′ 32″」 ↗
鼻の骨を折った夏に、5回目のツール優勝
1985年のツールの第14ステージ、ゴールまで1kmを切ったところで、イノーは落車に巻き込まれます。顔を血だらけにしてゴールし、鼻の骨が折れていました。その日はこう話しています。「脚も腕も2本ずつ残っている。それがいちばん大事だ」。2019年に東京では、こうも言いました。「……脚や、腕、肋骨などは折れていなかったんだ。ならば、リタイアする理由はどこにもないだろう?」
ピレネーの山頂ゴールでは4分以上遅れ、チームメイトのグレッグ・レモンが総合で2分25秒差まで迫りました。チームの取り決めでは、この年はレモンがイノーを助け、翌年はイノーがレモンのために走ることになっていました。イノーはパリで、2位のレモンに1分42秒の差をつけて、5回目のツール優勝を決めます。ツールを5回勝ったのは、ジャック・アンクティル、エディ・メルクスに続いて3人目でした。
2009年の来日のときの取材で、聞き手が、日本では1985年にNHKがツールの放送を始めたと伝えると、イノーは笑いました。「もちろん、NHKが来たから僕は勝ったんだ」。冗談だと言ってから、その年は日本とアメリカのテレビカメラが初めて現場に入った年で、時間をとって取材に応じたのを覚えている、と続けました。
2025年になっても、フランスの選手が最後にツールを勝ったのは、この1985年でした。イノーはこう話しています。「この40年のあいだに、一度はツールを勝つフランスの選手が、少なくともひとりは出ているべきだった。でもまあ、そういうものだ」
出典(5件)
DH(2025年7月21日):「à Saint-Étienne (14e étape), Hinault est pris dans une chute dans le dernier kilomètre et franchit la ligne le visage maculé de sang. Le Breton souffre d'une fracture du nez. " Il me reste mes deux jambes, mes deux bras, c'est le plus important…"」「À Luz-Ardiden, il termine à plus de quatre minutes de Pedro Delgado」「LeMond est revenu à 2:25 au général」「le Breton a promis de lui rendre la pareille, en se mettant à son service en 1986」「Hinault devient l'égal de Jacques Anquetil et d'Eddy Merckx avec cinq succès」 ↗Larousse『Journal de l'année 1986』:「1. Bernard Hinault (F), 113 h 24′ 23″ ; 2. Greg Lemond (USA) à 1′ 42″」 ↗シクロワイアード(2019年6月4日、東京のトークショー):「自転車を走らせるために使うであろう脚や、腕、肋骨などは折れていなかったんだ。ならば、リタイアする理由はどこにもないだろう?」「ジャック・アンクティル(1957,1961-1964)、エディ・メルクス(1969,1970,1971,1972,1974)、ベルナール・イノー(1978,1979,1981,1982,1985)、ミゲール・インデュライン(1991-1995)の4人のみ」 ↗シクロワイアード(2009年12月6日、東京での取材):「日本では1985年に初めてナショナルテレビジョンのNHKがツールの放送を開始しました。」「もちろん、NHKが来たから僕は勝ったんだ(笑)。というのは冗談だけれど、その年は日本とアメリカのテレビカメラが初めて現場に入った年で、何か有るんだろうと時間をとって取材に対応したのを覚えているよ。」 ↗Media365(2025年6月20日、France Bleu の取材から):「Depuis 1985, Bernard Hinault n'a toujours pas vu de tricolore remporter la Grande Boucle.」「« La France aurait dû avoir un coureur au moins qui gagne une fois le Tour de France depuis 40 ans. Mais bon, c'est comme ça」 ↗
アルプ・デュエズで手をつなぎ、その年の秋に現役を退いた
1986年7月21日、ツールのアルプ・デュエズの山頂ゴールに、イノーとレモンは手をつないで入りました。ステージはイノーのものです。前の年、イノーはレモンを助けて走ると約束していました。翌日のスポーツ新聞は「双頭の鷲」と見出しを打ちます。それでもイノーは、レースはまだ終わっていないと言いました。パリでは、レモンが3分10秒差でイノーを抑え、アメリカの選手として初めてツールを勝ちます。
2人の仲は悪かったと書かれ続け、イノーは本当は自分が勝ちたかったのだ、と伝える記事もあります。2019年に東京で、イノーはこう話しています。「いやいや、レモンと私の仲が悪いなんて言うのはメディアが作り上げた嘘っぱちだ」。当時はライバルのチームの選手が、2人それぞれに、相手が裏切ろうとしているとささやく情報戦をしていた、とも話しました。
イノーはこの年、「何にでも終わりはある。32歳でやめる」と何度も口にしていました。1986年11月9日、32歳の誕生日を5日後に控えて、地元で開かれたシクロクロスが最後のレースになります。集まった人は2万人でした。「自転車にはすべてを捧げたし、自転車はすべてを与えてくれた。……1シーズン余計に走って終わりたくはない」
出典(5件)
INA(2018年7月19日、1986年7月21日の放送から):「Sur la ligne d'arrivée, les cyclistes se prennent par la main」「Hinault arrive en tête d'une petite longueur」「Bernard Hinault avait promis l'année précédente de concourir pour aider son co-équipier」 ↗franceinfo(2017年7月21日):「Le lendemain, L'Equipe titre : Un aigle à deux têtes . Mais Hinault est insatiable. Il affirme que la course est encore ouverte.」「Hinault ne peut empêcher LeMond de devenir le premier Américain à remporter le Tour. Contrairement à ce qu'il affirmera longtemps, Hinault a bel et bien voulu gagner ce tour.」 ↗Larousse『Journal de l'année 1987』:「1. Greg Lemond (USA), en 110 h 35′ 19″ ; 2. Hinault (F), à 3′ 10″」 ↗シクロワイアード(2019年6月4日、東京のトークショー):「いやいや、レモンと私の仲が悪いなんて言うのはメディアが作り上げた嘘っぱちだ。」「その逆に、レモンに対しても “イノーは君を裏切ろうとしてるぞ” なんてそそのかすライバルもいたんだ。」 ↗Larousse『Journal de l'année 1987』(「Tout a une un」は原文ママ):「« Tout a une un, j'arrêterai à 32 ans », a souvent répété Bernard Hinault au cours de ces derniers mois. « J'ai tout donné au cyclisme et il m'a tout apporté. […] Je ne veux pas finir par la saison de trop ! » Ces propos, le champion breton les a de nouveau tenus le 9 novembre devant les caméras de la télévision et les 20 000 spectateurs qui s'étaient retrouvés à Quessoy pour lui rendre hommage à l'occasion de sa dernière course, un cycle cross.」 ↗
さいたまで最後の仕事を終え、ブルターニュの家で孫と過ごす
引退したあと、イノーはツールの主催者の仕事に就き、表彰式を取り仕切る役を長く務めました。表彰式の邪魔をしに表彰台へ上がってきた男を、すばやく突き飛ばしたこともあります。
2016年3月、その年のツールを最後に表彰式の役から退くと発表しました。主催者の仕事で、1年に140日ほど家を空けていたといいます。「16か月の孫がいる。子どもたちとは味わえなかったことを、孫とは味わいたいんだ」
主催者の大使としての最後の仕事は、2016年10月の、さいたまのクリテリウムでした。開会式では退任の式が開かれ、イノーはビデオでこう話しています。「50年前、祖父が私に対して多くの愛情を注いでくれた。だから私も祖父のように自分の孫にはたくさんの愛情を注ぎたいんだ」
日本でツールのテレビ放送が始まってから、最初のヒーローとして親しまれてきた人です。さいたまでは、その年のツールを勝ったクリス・フルームから自転車を受け取り、コースをパレードで走りました。沿道の観客に別れを告げて、ブルターニュの暮らしへ帰っていきました。
出典(3件)
シクロワイアード(2009年12月6日、東京での取材):「表彰式の邪魔をした不届き者を、」「素早く突き飛ばす!」「ツールでは表彰式のプレゼンターをつとめるほか」 ↗Ouest-France(2016年3月7日、AFP。アーカイブ):「Bernard Hinault dirigera pour la dernière fois en juillet prochain le protocole sur le Tour de France」「J'ai un petit-fils qui a 16 mois et ce que je n'ai pas vécu avec mes enfants, j'ai envie de le vivre avec mon petit-fils.」「Je pars à peu près 140 jours par an avec ASO」 ↗シクロワイアード(2016年10月30日):「ツール・ド・フランスさいたまクリテリウムは、その最後の仕事になった。」「50年前、祖父が私に対して多くの愛情を注いでくれた。だから私も祖父のように自分の孫にはたくさんの愛情を注ぎたいんだ。」「日本で80年代に初めてツール・ド・フランスのTV番組放送が始まって以来、最初のヒーローとして親しまれてきたイノー氏は、バイクに乗ってパレードランを走り、沿道の日本の観客たちにさよならの挨拶をした。」「引退後、愛する故郷ブルターニュでの暮らしに戻るイノー氏」「フルームからバイクを受け取って走り出すベルナール・イノー氏」「今年はマイヨジョーヌのクリス・フルーム」 ↗
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2014年、雪のリエージュで負った凍傷の名残がまだあると、イノーはイギリスの記者に話しています。紹介するのは、その記者が翌年に英語で出した、イノーの伝記です。
もうひとつは、あだ名にちなんだ、アナグマのフィギュアです。念のため書いておくと、ロードレースとは一切関係ありません。
Bernard Hinault and the Fall and Rise of French Cycling
William Fotheringham 著/英語版・Kindle版(2015年)
シュライヒ ワイルドライフ アナグマ
Schleich/動物フィギュア(14842)
この記事を書いた人
Grand Tour Hub 管理人
ロードレースの面白さを初心者目線で伝えるファンサイトの管理人。いちばん好きなのは、ゴール直前までもがいてスプリンターを発射させたアシストが、仲間の勝利を確信して、自分はまだゴールの手前なのにガッツポーズをする瞬間です。
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